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ゴナ・ギルワ

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ゴナ

昭和17年7月20日にラバウルを出発した南海支隊の「横山先遣隊」は翌21日に「良洋丸」と「綾戸山丸」でここゴナ海岸に到着しました。横山先遣隊の任務は主として道路開拓でした。翌22日早朝、敵機100機が幾度かに分かれて来襲し「綾戸山丸」が被弾して沈没してしまいました。2000年くらいまで、この綾戸山丸のマストがこの沖合いに「楊枝」のように小さく見えていましたが、今では完全にその姿を海底に沈めてしまいました。


右の写真はゴナ海岸で、先にある岬を回ったところが「バサブア」です。日本軍が最初に上陸した地点とされています。冒険者しか来た事のない全く未知の土地に、旧日本軍がやって来た訳で、車が通れる道がある訳ではありません。現地の人も車・銃などの文明的な機器を目の当たりにしたのはこれが初めての事でした。この海岸線に上陸した日本兵は16,000人にもおよびました。


この海岸に上陸して四ヶ月後の11月27日、はるかオーエンスタンレー山系から退却してきた南海支隊は再び、この海に辿りつきました。ポートモレスビー攻略作戦は中止され、撤退命令が発出されたのです。その後連合軍の圧倒的物量攻撃を受けながらも最後まで戦い抜いた日本軍でしたが、昭和18年1月20日夜、最後の兵が雨の中連合軍の目と鼻の先を闇夜にまぎれて北(写真上)方向に逃れて行きました。12,500人もの犠牲者を出した最後の撤退でした。その後、連合軍はデュブデュラ飛行場を建設して巨大な補給基地が出現し爆撃機・貨物機などの飛行機が次々に飛び立って行きました。

ギルワ

昭和17年12月23日・クリスマスを前にそれでも 連合軍は猛攻撃を加えてきました。年末にバサブアが玉砕・年明けにブナが玉砕しました。連合軍の攻撃は最後の陣地ギルワに迫ってきました。昭和18年1月12日・ギルワ地区が猛烈な砲撃と戦車攻撃 を受けました。13日・ラバウルの軍司令部はこの地区の全軍撤収を決定しましたが、行動不能なものは 陣地に残置されるという悲壮な撤退が始まりました。左の写真はギルワに残る旧日本軍の車です。いくつもの銃弾の後が残っています。


1月15日、連合軍は最後の総攻撃を開始しましたが日本軍は応戦します。しかし、1月20日の夜、激しい雨の中最後の応戦隊が北へ逃れました。 この地区の上陸から撤退まで犠牲者が12,500名にも及ぶ悲惨な結末で作戦は終了しました。右の写真はギルワでの慰霊祭の模様です。高知県知事の碑が現地住民によって保存されています。2年に一度の慰霊祭に合わせてキチンと草刈と掃除をしてくれています。手前の台はお供え物を置く台です。これも現地地主の手によって準備されたものです。 道路を挟んだ反対側には米軍の「碑」があります。


ギルワ地区の最後の砦となった地区に兵站病院があったそうです。多くの負傷した将兵が充分な治療も出来ない状態で、収容されていました。最後の時が迫ってある者は手榴弾を渡されて残されたそうです。ついに連合軍が最後の進撃を開始し、この地区の戦闘は終了しました。新しい年が明けた昭和18年1月20日の事でした。現在でも、兵站病院があったと思われる場所から左の写真のような薬品の小瓶、アンプル、飯盒、水筒はたまたお骨まで現地住民の手によって掘り起こされまとめられています。ギルワの碑から車で5分くらい海岸寄りに行ったところです。


右の写真はギルワの海岸線でサナナンダと呼ばれている場所です。船で最後に撤収した場所です。戦闘が激しくなると救援船も近づくことが出来なくなっていました。サナナンダの今の海岸線で海はソロモン海です。北へ進むと太平洋に続いています。この海岸からラバウルへ将兵が船で、また、最後の将兵は海岸線伝いに北(手前)に逃れて行きました。

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